NLB-「瞑想」ではなぜ解脱できないのか
古代ギリシャの哲学者ピタゴラス(Pythagoras)、
プラトン(Plato)、そしてインドの賢者ゴータマ(Gautama)は皆、
「真の覚醒」とは何かという問いに、
一つの共通の答えを見出していました。
それは「思考する」ことではなく、
「思考を超える」ことです。
現代人にとって“瞑想”とは、
心を落ち着け、呼吸を整え、
ストレスを減らす便利な技法のように思われがちです。
しかし、もしあなたが
「静かに座って心を鎮める」だけで魂の扉が開く
と信じているなら、それはまるで、
鏡を磨くだけで太陽の光が宿ると勘違いしているようなものです。
「瞑想」という言葉の誤解
今日のマインドフルネス文化で使われる
「meditation(瞑想)」という言葉は、
実は多くの誤解を生んでいます。
ラテン語の *meditari* は「思索する」、
つまり「考えること」を意味しました。
皮肉なことに、思考を止めるどころか
「考える行為」こそが瞑想とされたのです。
ところが、原始仏教、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、
そして新プラトン主義の教えにおいては、
「解脱」や「智慧」は思考によってではなく、
「思考の終焉」によってもたらされるとされました。
科学的研究においても、
“瞑想の定義”は混乱しています。
1971年の心理学者クラウディオ・ナランホ(Claudio Naranjo)は、
「瞑想の定義はいまだに確立されていない」と述べ、
2009年の研究でも「文献間の合意の欠如」が指摘されました。つ
まり、“誰もその正体を分かっていない”のです〔1, 2〕。
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